大学の先生の講義ノート

日々 専門職、時々 大学講師のジャイ子が、大学講義の舞台裏をご紹介します

teaching is to learn.

 

新しい講義の依頼が来ました。105分授業です。

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新しい講義の依頼がありました。 依頼のあったO大学の学事歴は春から変わるとのことです。

O大学では、新しいターム制(4学期制)の授業と従来のセメスター制(2学期制)の授業を実施していくそうです。私が担当するのは、従来通りのセメスター制の科目ですが、全ての授業が105分になります。

平成27年度から、東京大学では全ての学部において新しい学事暦で授業が行われています。

東京大学の学事歴にならって、4学期制、105分授業を取り入れる大学が増えてきました。

授業時間の延長は、ターム制の導入に伴う措置のようです。ターム制は、1年を4つの学期に分けることも可能にする制度で、ターム単位での海外修学や、タームとその前後の長期休業期間とを合わせた期間で比較的長い海外修学ができるようになるなどの利点があります。

ターム制の中で、大学設置基準で定められた1セメスター=1350分授業の条件を満たすためには、13週で105分の授業をすることが必要だということになるようです。

今まで通りのセメスター制の授業ももちろんありますから、このターム制とセメスター制の両方をうまく使うことで、今までよりもずっと柔軟に授業が展開できる環境が作られたのです。たとえばこれにより、学生にとって自主的な科目選択の機会が増え、学生は自分の学修計画をより主体的に立てることが可能となったわけです。

東京大学 教養学部報 第578号 より抜粋

海外で主流の4学期制は、留学の送り出しや受け入れを促進させる体制に間違いないでしょう。

単位や留年の心配なく、海外で学べる機会を持てることは、勉強熱心な今の学生にとって嬉しいニュースかもしれません。

ただ、世界で学ぶ機会(時間)を確保するために、いきなり1コマを105分にするって、無理があるような気がしてならないんですが。

105分×13回の講義で、現在の日本の大学生の多くが、今までと同じ質と量が学べるのでしょうか?

105分×13回の講義で、現在の日本の大学教員の多くが、今までと同じ質と量の授業をするのでしょうか?

4学期制の背景にはグローバル化…でも、でも。私は、講義の中で繰り返し言葉にして、心の奥深くにまで伝えたいことがあるのだ。

大学の講義で暗記も何もないですが、専門知識を習得するには、必然的に記憶のシステムに頼ることになります。長期記憶として知識を定着させるためには、その知識を使う頻度を増やすことが定番の方法です。

私は、講義主体の授業(非常勤講師の私の場合、教養科目を担当させられることが多く、必然的に受講人数も多く講義主体になっています。)では、例えば「概論」であっても、その科目テーマに底流するキー概念を意識し、その日の子テーマの中でキー概念を常に絡めながら話をします。

社会に出て、ほとんどの学生たちは私の講義の内容をほぼ忘れていくでしょう。でも、彼らが卒業して社会人になって、親になるなど様々な社会的な役割を担うようになる中でぶつかるであろう壁をうまく超えるヒントや、人生を豊かにする教養をほんの少しでも提供できれば、との思いで私は講義しています。

特に、O大学は、文系の小さな大学で、本当に色々な…色々な…色々な学生が(お察しください…)います。

必要出席日数ギリギリしか出席せず、最小エネルギーで単位を取得しようとする学生がたくさんいますし、これは、O大学に限ったことではありません。比較的入学試験が難しい某公立大学でも講義をしていますが、そこでも省エネルギー学生はたくさんいます。

省エネ学生に心を砕く必要はないのではないかという意見もあるかもしれませんが、なぜ彼らが省エネなのかというと、授業が面白くないからだと私は思っています。私は、いい講義に出会って勉強って楽しい!と大学に入って心から思いました。

自分の専門性を使って、学生の人生に役立つ講義をしたい…研究者を育てる立場に無い、しがない非常勤講師の私の目標はそれだけです。

だから、私は繰り返し、繰り返し、キー概念をつぶやき続けています。1回の授業でつぶやける回数は決まっている(それ以上つぶやくとくどくなる)ので、13回の授業になると、つぶやく頻度は減り、長期記憶として定着する効果は少し減るかもしれません。

なんか無理やり言ってる気がしてきましたが。

105分授業に抗議するため、一橋大学の齊藤誠教授がハンストされたらしいです。以下、先生が配布されたチラシの内容です。

1. 1コマ90分を超える講義は、教わる側も、教える側も、生理的限界を超えています。高校まで1コマ50分で受けてきた人間が、大学に入って倍以上の授業に耐えられるでしょうか?少なくとも、私には、105分、学生をひきつけてやまない講義を継続的に提供する自信など、微塵もありません…

2. かといって、講義開始を繰り下げたり講義終了を繰り上げたり、途中で休憩を設けたりすれば、学期中の講義時間が実質的に減少してしまいます。本来、総講義時間数の確保が目的であった制度改革が、本末転倒になってしまいます。

3. 第5時限が6時前に終わることは、学生にとっても教員や職員にとっても、人間の文化の問題です!学生であれば、図書館に行く、クラブに行く、課外活動をする、バイトに行く、デートをする、教員や職員であれば、夕食を準備する、子どもの教育をする、もちろん、研究室に籠ってもいいけど…などなど。いずれにしても、夕方以降は、学生も、教員も、職員も、大学の管理から離れるべきです。

“一橋大学広告研究会HASC”一橋生のための総合情報サイト『ヒトツマミ』より引用

激しく同意しつつ、読ませていただきました。特に「105分、学生をひきつけてやまない講義を継続的に提供する自信など、微塵もありません」のくだり。はい、私も実のところ、まったく自信はありません…

あ、そうか、だからビビっちゃって色々考えちゃうのかもしれませんね。

少なくとも、教室を縦横無尽に歩き回りながら動き続ける講義スタイル(にもかかわらず運動不足)の私にとって、それが105分に増えるというのは、正直きついなあと思っています。また、90分授業が体に染みついていて、今や時計を見なくても起承転結の講義シナリオを90分に納める感覚が体得されてしまったので、105分は勘が狂って間の悪い講義になりそうな気がします。

いずれにしても、講義スタイルや、色々なことを見直さないといけないなと思い、少し気が重いです。

だからなるほど。アクティブラーニングなのか?「講義でつぶやく」のは、古い人がやることなのね。

さて、上記述べてきた長期記憶は、長期記憶の中でも意味記憶についてです。意識して覚えようとする記憶、つまり、教科書や講義で覚える記憶のことです。私も、反復練習、丸暗記の繰り返しで受験を乗り切ってきた世代ですので、授業や学習のイメージは「先生の話を聞いてノートを取り、宿題をして、繰り返して覚える」です。超長年、日本の教育界で取り入れられてきたのは、意味記憶として知識を定着させる方法なんですよね。

「記憶へ定着させる」だけに着目すれば、長期記憶にする(=使える知識として自分のものにする)には、他にも方法があります。

タルヴィングが提唱したエピソード記憶です。エピソード記憶とは、個人的な経験の記憶のことを言います。つまり、エピソード記憶には、出来事(知識)だけでなく、それが生起した時の場所・時間・感情の記憶を伴います。この感情を伴うというところがポイントで、感情を伴った記憶ほど忘れ難く、思い出しやすいため、エピソード記憶もまた長期記憶として定着していくのです。

以前の記事でも書きましたが、アクティブラーニングというのが流行っています。文部科学省もだいぶ議論してますよね。

www.kougi.info たぶん、これは、記憶の文脈で読み解くと、短時間に講義で知識を詰め込み、反復学習させて定着を図るという、一見効率的な意味記憶定着へのプロセスは真の学習に効果的でなかった、ということを国が認めたということでしょうか。

というか、子どもを競争させ、とりあえずたくさん詰め込ませて、根性や努力で高学歴を勝ち取っていくのが成功のモデルケースであった、子どもの多い(私の子ども)時代と今は違うんでしょうかね。

ある大学では、講師を引き受ける際にアクティブラーニングのすすめなる冊子を渡され、なるべく取り入れてくださいとやんわり指示がありました。

これは、105分授業が取り入れられる前からの話で、義務教育の子どもたちの授業にも今やけっこうアクティブラーニングが取り入れられています。ディスカッションやプレゼンテーションなどの能動的な学習が、(今までの教育方法より)知識の定着や活用力を向上させるというのが国の議論の結果であり、教育方法の進歩(であればいいのですが)なんやろか。

アクティブラーニング自体は、とてもいいことだと思います。そのプロセスの中で、専門学習以外の技能(コミュニケーション能力や、自己表現の力、社会性など)も身につけられるし、させられ感満載の講義より、楽しんで参加できそうです。

体験を通して学んだ知識は、エピソード記憶として定着しそうです。

でも、“アクティブラーニングのすすめ冊子”を渡されて、それに対応する、対応できる教員はどのぐらいいるのだろう。集団を仕切るリーダーシップ的な学生の気持ちをひきつけまとめる能力と、研究内容と研究業績のみで採用される教員の能力にけっこうな乖離がありそうな気がするのは、私だけでないと思う。

何年も使っている、古びたノートと教科書だけ持って、教室内の状況がどうであろうと、淡々としゃべり続けるだけの教授って私が学生の頃は結構いたし、今もいるんとちゃうかなぁ。

そういう先生の授業も、結構いぶし銀な感じで好きだったけど。

続く

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