大学の先生の講義ノート

臨床角帽学概論A

teaching is to learn.

 

学生の孤独感は、想像力の欠如という習慣が生み出すのではないだろうか? 便所飯?リプ無視?SNS疲れの意味が、ガラケ世代にはわからないわ。

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いや、今は時代が違うから、で一蹴されたら身もフタもないのだけど。

10年ほど前から、便所飯というネットスラングが耳に入ってくるようになり、大学で教鞭をとる私も、学生とのセッションの中で、確かに、孤独感に敏感な大学生が増えたな、という印象がある。

dic.nicovideo.jp

二十年前の大学生は孤独ではなかった?私の大学時代。

私は、学生時代、アパートで一人暮らしをしていた。

高校3年生の3月、地方の大学に進学を決めた私は、大学と同じ県内に住む従兄に付き添ってもらい何軒か不動産屋をまわり、大学から徒歩5分ほどのアパートを一人暮らし先に決めた。

3月の末の引越当日、赤帽に頼んだ衣類などのわずかな荷物が着く少し前に、私は一人でまだ少し肌寒いアパートに到着。
ガス開栓の立ち合いを済ますと、家具がないので荷物を納められず、とりあえず荷ほどきは先送り。
することもなくて手もち無沙汰だった私は、とりあえず近くを散策し、リサイクルショップを見つけて、赤が日に焼けて粉をふいたレンガみたいな色になった中古自転車を買った。

携帯電話も無ければ、個人でパソコンを持たない時代。
もちろん、ググるスマホもない。
どうやって一人暮らしをスタートさせるか?は、自分のこれまでの生活体験をベースにした勘が頼り。
私は、とりあえず、近所の書店で(当時は書店が今よりたくさんありました)コンパクトな市街地図を買って、そこに目印をつけながらボロ赤号に乗ってアパートの周りを散策した。

親からは支度金としていくらかまとまったお金を貰ったので、入学式までの1週間ほどで、当面困らない程度の家具や中古家電を購入して生活を整え、入学式を迎えた。
入学式には母も出てきてくれ、その日の晩は、小さなアパートの一室でささやかな入学祝の食事をとったことを覚えている。

翌朝に母は帰り、それから夏休みに帰省するまでの期間は、人生で最初に経験した家族と離れて一人で過ごす長い時間となった。


…ああ懐かしいなあ。
思い出すのは、ウキウキ、ワクワクした気持ち。
毎日が本当に新鮮で楽しかったです。

学生が孤独感を感じる要因についてあれこれ考えてみた

知らない土地で、知り合いも一人もいない。
友達ができ、部活などのコミュニティに参加するようになるまでは、慣れない一人暮らしに孤独を感じ、心細い思いをしても当然の環境だったと思われる。

でも、私は1ミリも寂しさを感じなかった。

方や今の学生には、新入生合宿や、大学案内ツアーなどのイベントetc.…各大学では、手厚い取り組みが入学前から行われており、積極的に動かなくても友達を作ることができる環境が大学で用意されている。

SNSの普及により、リアルに出会う前から友達になっている新入生も多い。

ネットショップで大抵のものは手に入り、土地勘が無くてもグーグルマップ片手に出かければ、誰に聞くことも迷うこともなく目的地に着くことができる。
スマホがあれば、時間がつぶせるし、飽きることもない。

安心、安全、合理的、ストレスフリー、それが今の学生の環境だ。
なのに、彼らは、私の時代の学生より孤独やストレスを感じやすいように見える。

今の学生の孤独感について、考えてみた。
日頃、学生と関わっている中で感じていることに基づく仮説だけど。

孤独を感じる前提 合理的な人間関係しか知らない

今の学生は、「つながりたい、と思う人とだけつながる」という世界に生きている。
人間関係は合理的で、自分が傷つくことの安全な範囲の付き合いが多い。
ぶつかり合い、ストレスになる人間関係は避けることも可能なので、リアルな対人関係におけるジレンマ体験が乏しいかもしれない。

(昔は、携帯もなく、恋人の家に電話すると親御さんが出ることもあり、自分のことを説明したり、電話の交代を拒否されたり…手痛い洗礼を受けたもんだ。そんな中で言葉づかいを覚え、処世術を身につけたりできたんじゃなかろか。)

また、少子化の影響で兄弟も少ない上、異年齢の子ども集団で遊んだり、もめたりする経験があまりなかったのも今の学生たちだ。
小学生の頃の放課後の過ごし方は、学童、習い事、誰かの家、という感じだったようだ。
(これは、地域性もあるかもしれないが。)

色々な人がいて、色々な事情や考え方がある。そんな当たり前のことを、私が子どもの頃よりずっと体感しにくい子ども時代を送っていたようだ。

孤独感へのプロセス 合理的な伝達手段は、自己中心的なレスポンスへの期待を増大させ、想像力を低下させる

SNSなどの普及により、離れた相手とかなり細やかなやり取りができるようになった。
目の前にいない相手と会話のごとくポンポンやり取りができることは本当に便利。

ただ、会話をしている時の自分の温度感と相手の温度感は同じではないんだよね。 

  • A君はB君を親友と思っているし、B君もA君のことをいい友達だと思っている。
  • A君は、大学生活でB君との関係を頼りにしていて他に深く付き合う友達はいないけど、
  • B君は、部活の友達がたくさんいる。
  • A君は、下宿先に帰宅してからレポートについての疑問をA君にLINEで聞く、明日提出、焦っている。
  • B君は、LINEが来たのは部活の最中、部活後、部員とご飯を食べているときにA君のLINEに気づく、あとで調べて返事すると返信。
  • 返事を待っていたA君は、イライラしている。
  • 帰宅したB君は、レポートの疑問についてLINEで答える。

もちろん、相手と自分との環境の違いがあることくらい、学生だって知っている。

ただ、この場合、A君はテーブルの上にスマホを置いてイライラを募らせている。
独り暮らしの下宿で、B君の返事を来ない状況に、何かを感じはじめるかもしれない。

 

「B君は自分のことを友達と思っていないのではないか」
「自分は大切にされていない」

 

B君は、授業とハードな部活の両立で、毎日クタクタ。

「部活だって知ってるくせに、何度も連絡してきて、A君は無神経な奴だ」

 

携帯もメールもなかった時代、連絡手段は固定電話か手紙、伝言板や電報だった。
固定電話は家にいないととれないし、手紙は確実に届く日がわからないし、昔は郵便事故もよくあった。

相手と連絡が取れない原因が常に複数あり、確かめようがない。

今は、いつでもどこでも、確実に即時連絡が取れる通信環境がある。
青年期の不安定さは、「(こんな便利な状況なのに )連絡が返ってこないのは、相手は自分と連絡を取ろうとしていないからだ」と短絡的に感じ、返事が遅い(ない)理由を自分との関係性にまで落とし込みがちだ。

相手のレスポンスの悪さに、普段、自分でも気づいていない不安や寂しさが投影され、自分に関心がない、悪意がある、蔑ろにしているetc.と被害的に感じ、疎外感を感じ始める学生もいる。

ひとりぼっちはイケてない奴という、つまらない価値観の普及

昔話かもしれないが、私が学生の頃は、先輩が難しそうな本に目を落としながら、学食で一人食事をとっている姿は、大人のムードが漂っていてカッコイイ!と思ったものだ。

それが、今は一人はダメなんですか?
便所でご飯食べるんですか…。
一人で食事する姿を「寂しい行為」とラベリングする学生のムードを、お子ちゃま文化と感じるのは私だけだろうか。

授業をしていて感じるのは、
一人でいる力のある人は、集団でも力を発揮できるし、人間関係も授業もうまくやれる。
一人でいられない人は、集団の中で自分の居場所を見つけることに気を取られ、友達との関係に気を使い、発言や表現も消極的でうまくやれない。

自立をカッコイイと思わなくなったのは、いつ頃からなんですかね。


孤独を感じる落とし穴 目に見える評価がアイデンティティ

以前、学生と話していたら、誕生日のツイートが話題になった。
私は、ガラケ。LINEもツイッターもしないので、(FBページやブログアカウントのツイッターはありますが、パソコンでアクセスしているので日常的に使うことはない。)よくわからないところもあるのだが、誕生日になるとお祝いのメッセージが来たり、いいね!がついたりするんですか?
ある学生が、いいね!の数が少ないとしょぼくれていた。

どうやら、学生たちにとって、自分の評価は、いいね!の数や、レスポンスの早さ、SNS上の友達の多さetc.…物理的に測定できる数、速度、そういうもので測っているようなのだ。

これって、自分のアイデンティティが完全に外付けされているようなパターン。
目に見える評価が自分の価値だとするならば、数が少なくなれば、ほんと落ち込むのでしょうね。
そして、孤独感を感じざるを得なくなる。

エリクソンは、大学生の時期にあたる「青年期」の心理社会的発達の課題として、アイデンティティの獲得とた。
つまり、大学生くらいの時期に「自分はだいたいこんな人で、こんな感じかな~」と性格や適性や諸々自分を同定する要素についてイメージでき、それに基づいて動いていけるようになる、ということ。
アイデンティティは本来、自分の内側(心)にあるものだ。自分の中にしっかりとした核を持つ大事な時期に、内省よりも、外付けの評価獲得に躍起になる。
それで自分というものが育つのかな、スマホ無くなったら空虚感しかないやん!それでええの?と考えてしまう。

 

生身の体験が人を育て、豊かにする、というのはもうおばちゃんの戯言なのだろうか、価値観の違いなのだろうか。
私は、オーロラはテレビより現地で見たい(きっといつか!!)し、やっぱりライブは感動するし、初音ミクよりサラ・ボーンは素晴らしいと感じるよね。

つながっていないから、つながっていると感じられた古き良き時代。

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